アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。

 日本に着いたアメノヒボコは、難波(なにわ=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国(はりまのくに)にやって来たのです。

 播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神(いわのおおかみ)という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」と断りました。ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。
 「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」

 大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。
 一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は福崎町(ふくさきちょう)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。
 二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。
 「このままではまわりの者が困るだけだ。」
 そこで二人は、こんなふうに話し合いました。
 「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」

 二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。
 二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。

 「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、
 「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。
 「わしの黒葛は、ひとつは城崎(きのさき)、ひとつは八鹿(ようか)に落ちているが、あとのひとつは・・・。」
 伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。
 黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコは但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。
 ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

 その後アメノヒボコは但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。