絵図の作者はだれ?
最後に、「淡路名所図会」の作者を考えてみたいと思います。
本絵図集を収めた木箱には、「竹原春朝斎筆」とあることから、少なくともこれを記した人物は竹原春朝斎(寛政12年(1801)没)の作と考えていたようです(図1)。竹原春朝斎は『都名所図会』や『摂津国名所図絵』で知られる浮世絵師で、作者の可能性と考えてよいかもしれません。しかし、少なくとも文化11年の時点で「淡路」を対象とした図会(『南海道名所図会』のうち)は、「続刻」とされており、上梓されていないことが確認できます。
加えて、広石下村の「彊寺」(堺寺(さかいでら))裏面には「文化四卯年八月廿三日再見」(1807/図2)とあること等から、本絵図集の成立が春朝斎死後の文化期まで下るものと考えられます。竹原春朝斎の写生画に多い寺社への参詣人が本絵図集にほとんど描かれていないことも、作者が春朝斎否定説の根拠の1つとされています(菊川1988)。
また、暁鐘成(木村明啓)による「淡路国名所図絵」(嘉永4年(1851)序、慶応2年(1866)刊)とも体裁が異なり、本絵図集の作者とはいえなさそうです。
では、絵図の作者は一体だれでしょう?
現時点で可能性の高い人物として、洲本の図画・印判・彫刻師であった平野安澄(ひらのやすずみ)(1752~1811)が挙げられています(菊川1988)。平野は通称松屋井(伊)之助、雅号を不一房松花とした人物で、画図を得意としており、それによって一時徳島藩から俸禄を賜っていたようです(『淡路草』)。また、淡路国内を実地見分して回り、「御国中歴覧日記」をつけ、「胞州誌」(寛政期(1789~1801))や「淡州誌」等の地誌を著した人物としても知られます。さらに、天明六年(1786)には「国命」、つまり徳島藩10代藩主・蜂須賀(はちすか)治昭(はるあき)の命を受けて絵図の作成にとりかかり、六年半の歳月をかけて完成させたといいます(藪田2025)。
本絵図集の作者を確定させるにはもう少し研究の余地がありますが、島内の巡見、藩主名での絵図作成、長期におよぶ制作期間等を考えると、ひとまず平野安澄を有力な作者とすることができそうです。
