伊藤博文(1841~1909)は、天保12年に周防国(山口県)で生まれた。幼名は利助のち俊(春)介といい、春畝と号した。吉田松陰の松下村塾に学んで尊攘(そんじょう)運動に参加し、文久3年(1863)長州藩の下級士分に取り立てられ、井上馨らとロンドンに留学したが翌年帰国。伊藤は、明治維新政府の樹立に貢献し、才能を認められ、新政府の中心的人物となっていった。慶応3年(1867)12月に兵庫開港、その翌年3月19日に伊藤は、外国事務掛(かかり)として兵庫(神戸)港の管理責任者を命ぜられた。続いて5月23日、兵庫裁判所が廃止され兵庫県(第1次)が置かれると、伊藤はその初代知事に任命された。この書状は、伊藤が兵庫県知事在任中の明治2年3月26日付で、伊藤慎蔵に長州(山口県)の書生2人を紹介し、指導方を依頼している。伊藤慎蔵は、長州藩医の子で、嘉永2年(1849)緒方洪庵の適塾に入門して蘭学を学び、名塩(なじお)村(西宮市)で洋学塾を慶応3年まで開いていた。慶応4年8月に兵庫県知事の伊藤が開設した洋学伝習所の教授として、明治2年5月に迎えられた。
資料解説
伊藤博文(1841~1909)は、天保12年に周防国(山口県)で生まれた。幼名は利助のち俊(春)介といい、春畝と号した。吉田松陰の松下村塾に学んで尊攘(そんじょう)運動に参加し、文久3年(1863)長州藩の下級士分に取り立てられ、井上馨らとロンドンに留学したが翌年帰国。伊藤は、明治維新政府の樹立に貢献し、才能を認められ、新政府の中心的人物となっていった。慶応3年(1867)12月に兵庫開港、その翌年3月19日に伊藤は、外国事務掛(かかり)として兵庫(神戸)港の管理責任者を命ぜられた。続いて5月23日、兵庫裁判所が廃止され兵庫県(第1次)が置かれると、伊藤はその初代知事に任命された。この書状は、伊藤が兵庫県知事在任中の明治2年3月26日付で、伊藤慎蔵に長州(山口県)の書生2人を紹介し、指導方を依頼している。伊藤慎蔵は、長州藩医の子で、嘉永2年(1849)緒方洪庵の適塾に入門して蘭学を学び、名塩(なじお)村(西宮市)で洋学塾を慶応3年まで開いていた。慶応4年8月に兵庫県知事の伊藤が開設した洋学伝習所の教授として、明治2年5月に迎えられた。