酒井忠知(忠恭〔ただずみ〕、1710~72)は、寛延2年(1749)に姫路藩主となった酒井忠恭の初名である。宝暦12年(1762)7月に桃園天皇が崩じ、後桜町天皇が踐祚(せんそ)し、即位式が11月27日に行われることになった。忠知は、江戸幕府10代将軍家治の命により、その名代として即位式に赴いた。11月6日、江戸を発駕、22日に京都に着き、即位式の役目を無事済ませた翌28日に忠知から忠恭に改名した。12月6日には、左近衛少将に任ずべき旨勅使を蒙り、9日に京都を発駕し、22日江戸に帰着した。この書状は、山科厚安が、即位式で御匙(おさじ)(侍医)として勤めたことに対し、牧野備後守から米100俵を下される旨申し渡され、ありがたきことと礼を述べたということを忠知が承ったと厚安に書き送ったものである。
資料解説
酒井忠知(忠恭〔ただずみ〕、1710~72)は、寛延2年(1749)に姫路藩主となった酒井忠恭の初名である。宝暦12年(1762)7月に桃園天皇が崩じ、後桜町天皇が踐祚(せんそ)し、即位式が11月27日に行われることになった。忠知は、江戸幕府10代将軍家治の命により、その名代として即位式に赴いた。11月6日、江戸を発駕、22日に京都に着き、即位式の役目を無事済ませた翌28日に忠知から忠恭に改名した。12月6日には、左近衛少将に任ずべき旨勅使を蒙り、9日に京都を発駕し、22日江戸に帰着した。この書状は、山科厚安が、即位式で御匙(おさじ)(侍医)として勤めたことに対し、牧野備後守から米100俵を下される旨申し渡され、ありがたきことと礼を述べたということを忠知が承ったと厚安に書き送ったものである。