青山幸利(よしとし)(1616~84)は、摂津国尼崎藩主(5万石、のち4万8,000石)として寛永20年(1643)に就封し、貞享元年(1684)に没した。宛所の青山因幡守は、貞享2年(1685)に遠江国浜松藩主となった忠重のこと。延宝6年(1678)に忠重の父宗俊が浜松に移封されていた。忠重の家は、のちに亀山藩主を経て篠山藩主となった。この両青山家の関係は、徳川家康に仕えた忠成の子の忠俊を祖とするのが忠重の青山家であり、忠俊の弟の幸成を祖とするのが幸利の系統である。 この書状は、松平因幡守信興(旗本でのちに土浦藩主となる)に嫁いでいた幸利の娘の出産を祝い、また幸利から贈られた鷹の鷭(番)(つがい)について礼を述べた手紙を忠重が送り、その返事として幸利が忠重に送ったものである。尚々書に見える和泉は、忠重の兄忠雄のことで、父宗俊の後嗣として藩主となったが、文面からも病気がちだったことが察せられ、貞享2年に35歳の若さで没した。この書状は、両青山家の関係がうかがえるものである。
資料解説
青山幸利(よしとし)(1616~84)は、摂津国尼崎藩主(5万石、のち4万8,000石)として寛永20年(1643)に就封し、貞享元年(1684)に没した。宛所の青山因幡守は、貞享2年(1685)に遠江国浜松藩主となった忠重のこと。延宝6年(1678)に忠重の父宗俊が浜松に移封されていた。忠重の家は、のちに亀山藩主を経て篠山藩主となった。この両青山家の関係は、徳川家康に仕えた忠成の子の忠俊を祖とするのが忠重の青山家であり、忠俊の弟の幸成を祖とするのが幸利の系統である。
この書状は、松平因幡守信興(旗本でのちに土浦藩主となる)に嫁いでいた幸利の娘の出産を祝い、また幸利から贈られた鷹の鷭(番)(つがい)について礼を述べた手紙を忠重が送り、その返事として幸利が忠重に送ったものである。尚々書に見える和泉は、忠重の兄忠雄のことで、父宗俊の後嗣として藩主となったが、文面からも病気がちだったことが察せられ、貞享2年に35歳の若さで没した。この書状は、両青山家の関係がうかがえるものである。