小笠原忠政(忠真、1596~1667)は、慶長元年に下総国古河(現茨城県)で生まれた。元和元年(1615)大坂夏の陣で父と兄が戦死し、自らも負傷したが、徳川家康は「鬼孫」と呼んでその功労をねぎらい、父秀政の遺領信濃国松本(現長野県)8万石を与えた。元和3年7月28日、2万石を加増され播磨国明石藩主となった。 この書状は、忠政が松本から明石に転封を命じられた直後のものと考えられ、「加豊前」(具体的な人名は未詳)に宛てた返書である。この文面からは断言できないが、加豊前が忠政の加増に伴う家臣雇い入れに伴い加子左大夫父子を紹介したのではないか。その父子が三原郡(淡路国)に入ったと連絡があったが、この時点では領地として何処の地を宛行(あてが)われるか不明であり、淡路国が忠政の領地になる可能性があったのかもしれない。9月11日に、忠政へ播磨国明石郡・美嚢郡において10万石を与える旨の領地目録が下された。
資料解説
小笠原忠政(忠真、1596~1667)は、慶長元年に下総国古河(現茨城県)で生まれた。元和元年(1615)大坂夏の陣で父と兄が戦死し、自らも負傷したが、徳川家康は「鬼孫」と呼んでその功労をねぎらい、父秀政の遺領信濃国松本(現長野県)8万石を与えた。元和3年7月28日、2万石を加増され播磨国明石藩主となった。
この書状は、忠政が松本から明石に転封を命じられた直後のものと考えられ、「加豊前」(具体的な人名は未詳)に宛てた返書である。この文面からは断言できないが、加豊前が忠政の加増に伴う家臣雇い入れに伴い加子左大夫父子を紹介したのではないか。その父子が三原郡(淡路国)に入ったと連絡があったが、この時点では領地として何処の地を宛行(あてが)われるか不明であり、淡路国が忠政の領地になる可能性があったのかもしれない。9月11日に、忠政へ播磨国明石郡・美嚢郡において10万石を与える旨の領地目録が下された。