本多忠政(1575~1631)は、徳川四天王の1人平八郎忠勝の子として天正3年に三河国(現愛知県)で生まれた。父とともに家康・秀忠に仕え、慶長3年(1598)従五位下美濃守に叙任、慶長15年に父の遺領を継ぎ桑名藩10万石の藩主となった。元和3年(1617)大坂冬・夏の陣の戦功により5万石の加増を受け姫路に転封となり、播磨国内において15万石を領した(なお、豊臣秀頼の妻であった千姫を忠政の子忠刻に再嫁され、忠政転封と同時に、忠刻には10万石が別に与えられた)。 この黒印状は、忠政が姫路藩主となった翌年に、家臣の木村久大夫に加西郡西南村(現加西市)のうち200石を知行として与える旨を記したものである。このように個別の村を指定して家臣に知行を与えることを地方知行(じかたちぎょう)制といい、江戸時代の初期には多く行われたが、時代が下がるにつれ擬制化し、俸禄制(蔵米知行)に移行した。
資料解説
本多忠政(1575~1631)は、徳川四天王の1人平八郎忠勝の子として天正3年に三河国(現愛知県)で生まれた。父とともに家康・秀忠に仕え、慶長3年(1598)従五位下美濃守に叙任、慶長15年に父の遺領を継ぎ桑名藩10万石の藩主となった。元和3年(1617)大坂冬・夏の陣の戦功により5万石の加増を受け姫路に転封となり、播磨国内において15万石を領した(なお、豊臣秀頼の妻であった千姫を忠政の子忠刻に再嫁され、忠政転封と同時に、忠刻には10万石が別に与えられた)。
この黒印状は、忠政が姫路藩主となった翌年に、家臣の木村久大夫に加西郡西南村(現加西市)のうち200石を知行として与える旨を記したものである。このように個別の村を指定して家臣に知行を与えることを地方知行(じかたちぎょう)制といい、江戸時代の初期には多く行われたが、時代が下がるにつれ擬制化し、俸禄制(蔵米知行)に移行した。