蛻巌は江戸中期の明石藩の儒者。寛文12年(1672)大身の旗本蒔田家の家老をつとめる梁田勝秀の五男として、江戸神田に生まれた。名は邦美、字は景鸞、号を蛻巌、蛻翁、通称新六という。若くして人見鶴山の門に入り、儒学を修めた。また、山崎暗斎の学を学んだともいう。一方、新井白石の知遇を得て、室鳩巣や三宅観瀾らとも交わった。20歳から3年間、加賀藩前田家の儒者として仕え、さらに、26歳から10年間、岐阜加納藩戸田家の侍講をつとめた。一旦江戸に戻り塾を開いて門人の教導に従ったが、その間、次第に詩文の名を高めた。享保4年(1719)48歳のとき、明石藩松平家に招かれ、儒者として仕えた。その年月は40年に及ぶといわれる。明石にあって自邸内に景徳館を設け子弟の教育につとめた。宝暦7年(1757)87歳の高齢で没し、明石の本立寺に葬られた。蛻巌の書は多く伝えられているが、絵は極めて珍しいといえよう。本図は墨で夜来の風雨に打たれた岩と竹を描いており、その筆使いにはなかなか巧みなものが感じられる。図上に「癸酉重陽写併題為河野君一笑 蛻翁」とあり、宝暦13年(1753)83歳の作と知られる。この画は、河野某のために描き与えたものである。
資料解説
蛻巌は江戸中期の明石藩の儒者。寛文12年(1672)大身の旗本蒔田家の家老をつとめる梁田勝秀の五男として、江戸神田に生まれた。名は邦美、字は景鸞、号を蛻巌、蛻翁、通称新六という。若くして人見鶴山の門に入り、儒学を修めた。また、山崎暗斎の学を学んだともいう。一方、新井白石の知遇を得て、室鳩巣や三宅観瀾らとも交わった。20歳から3年間、加賀藩前田家の儒者として仕え、さらに、26歳から10年間、岐阜加納藩戸田家の侍講をつとめた。一旦江戸に戻り塾を開いて門人の教導に従ったが、その間、次第に詩文の名を高めた。享保4年(1719)48歳のとき、明石藩松平家に招かれ、儒者として仕えた。その年月は40年に及ぶといわれる。明石にあって自邸内に景徳館を設け子弟の教育につとめた。宝暦7年(1757)87歳の高齢で没し、明石の本立寺に葬られた。蛻巌の書は多く伝えられているが、絵は極めて珍しいといえよう。本図は墨で夜来の風雨に打たれた岩と竹を描いており、その筆使いにはなかなか巧みなものが感じられる。図上に「癸酉重陽写併題為河野君一笑 蛻翁」とあり、宝暦13年(1753)83歳の作と知られる。この画は、河野某のために描き与えたものである。