織田信長が、明智光秀に命じて丹波(兵庫県西北部、京都府西部)を攻めさせていた時期の文書。「天下布武」の朱印が押され、信長が発給した文書であることを示している。 宛先は丹後(京都府北部)の国人とみられる矢野弥三郎で、赤井氏・荻野氏の赦免にかかわらず、矢野の所領については従来通りを保証することを伝えている。 赤井氏・荻野氏は丹波氷上郡(丹波市)を本拠として西丹波に勢力を広げた国衆で、このころは荻野直正が一族を率い、天正3年(1575)以来明智光秀と黒井城(丹波市春日町)で戦っていた。しかし、この文書の冒頭には、赤井・荻野両氏を赦免するとあり、一時和解が成立しようとしていたことを示している。天正4年(1576)正月に、黒井城を包囲していた光秀が大敗・退却しており、このあとに一旦の和議が成立したものかと推定される。 なお、この後荻野直正は天正6年3月に病死し、天正7年5月~8月にかけて、明智光秀は波多野氏、赤井氏を順次降していき、丹波は織田政権の支配下に入っていくこととなる。
資料解説
織田信長が、明智光秀に命じて丹波(兵庫県西北部、京都府西部)を攻めさせていた時期の文書。「天下布武」の朱印が押され、信長が発給した文書であることを示している。
宛先は丹後(京都府北部)の国人とみられる矢野弥三郎で、赤井氏・荻野氏の赦免にかかわらず、矢野の所領については従来通りを保証することを伝えている。
赤井氏・荻野氏は丹波氷上郡(丹波市)を本拠として西丹波に勢力を広げた国衆で、このころは荻野直正が一族を率い、天正3年(1575)以来明智光秀と黒井城(丹波市春日町)で戦っていた。しかし、この文書の冒頭には、赤井・荻野両氏を赦免するとあり、一時和解が成立しようとしていたことを示している。天正4年(1576)正月に、黒井城を包囲していた光秀が大敗・退却しており、このあとに一旦の和議が成立したものかと推定される。
なお、この後荻野直正は天正6年3月に病死し、天正7年5月~8月にかけて、明智光秀は波多野氏、赤井氏を順次降していき、丹波は織田政権の支配下に入っていくこととなる。