『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)

律令国家(りつりょうこっか)の命令によって編纂された古代播磨の地理書。霊亀元(715)年前後に編纂されたものと見られている。現存するものは、三条西家(さんじょうにしけ)に所蔵されていた古写本で、巻首の赤石(明石=あかし)郡の全部、賀古(加古=かこ)郡冒頭の一部と、巻末の赤穂郡(あこうぐん)の全部の記載が欠落している。活字化されたものは、日本古典文学大系新装版『風土記』(秋本吉郎校注、岩波書店、1993年)のほか、全文を読み下しした、東洋文庫145『風土記』(吉野裕訳、平凡社、1969年)などがある。

 
流紋岩(りゅうもんがん)

火成岩のうち、マグマが急激に冷えて固まった火山岩の一種。成分のうち二酸化ケイ素が70パーセント以上のものをいう。

 
軽石凝灰岩(かるいしぎょうかいがん)

凝灰岩とは、火山灰が堆積してできた岩石。そのうち、軽石を主な構成物質とするものを軽石凝灰岩と呼ぶ。そのもとになる成分は、流紋岩質か安山岩質となる。

 
石英安山岩(せきえいあんざんがん)

火成岩のうち、マグマが急激に冷えて固まった火山岩の一種。二酸化ケイ素が63~70パーセントのもので、「デイサイト」ともいう。

 
『峰相記』(みねあいき)

峰相山鶏足寺(みねあいさんけいそくじ=現在の姫路市石倉の峰相山山頂付近にあった寺)の僧侶が著した中世播磨の宗教・地理・歴史を記した書物。原本は本文冒頭の記述から貞和4(1348)年ごろに成立したと考えられる。現存する最善本は揖保郡太子町(いぼぐんたいしちょう)の斑鳩寺(いかるがでら)に伝わる写本で、奥書から永正8(1511)年2月7日に書写山別院(しょしゃざんべついん)の定願寺(じょうがんじ)で写されたものであることがわかる。活字化されたものは、『兵庫県史』史料編中世4(兵庫県史編集専門委員会、1989年)や、全文口語訳をした、西川卓男『口語訳『峰相記』――中世の播磨を読む――』(播磨学研究所、2002年)などがある。

 
崇神天皇(すじんてんのう)

『古事記』・『日本書紀』の神話では第10代の天皇とされる。実在の可能性が指摘されている最も古い代の天皇でもある。

 
応神天皇(おうじんてんのう)

『古事記(こじき)』・『日本書紀(にほんしょき)』の神話では第15代の天皇とされる。母の神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵したときは、母の胎内にあり、帰国後筑紫(つくし=現在の福岡県付近)で生まれたと記される。また、朝鮮半島からの論語(ろんご)・千字文(せんじもん)の伝来なども応神代の記事として見える。

実在の可能性を考える説もある天皇で、河内(かわち=現在の大阪府東部)を拠点とする新王朝の創始者とする説や、4世紀から5世紀に中国へ使者を送ったと中国の歴史書に見える、いわゆる「倭の五王(わのごおう)」の一人に比定する説などもある。日本最大級の古墳の一つである大阪府羽曳野市(はびきのし)の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)が、古来その陵墓とされてきた。また、後世には父仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、母神功皇后とともに、八幡信仰の三祭神の一つともされるようになっている。

 
聖徳太子(しょうとくたいし)

574―622。推古天皇(すいこてんのう)の摂政(せっしょう)・皇太子。本名は厩戸王(うまやどのおう)。仏教への信仰が厚く、四天王寺(してんのうじ)や法隆寺(ほうりゅうじ)を建立したほか、経典の注釈書も著したとされる。また、冠位十二階(かんいじゅうにかい)や十七条の憲法を制定するなど、摂政として政治改革にも努めたとされる。ただし、こうした国政上での活躍は、奈良時代における創作である、などとする説もある。

聖徳太子をめぐっては没後、さまざまな伝説が語られるようになった。平安時代中ごろ成立の『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』は、そのころまでにできあがっていた諸伝説を集成したもので、以後の聖徳太子信仰の展開に大きな影響を与えた。

 
古浄瑠璃(こじょうるり)

浄瑠璃の成立は、15世紀後半のころと見られているが、当初は、今日のような人形芝居を伴わない、伴奏にのせた語り物の形をとっていた。その後、17世紀後半に竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が義太夫節と呼ばれる曲風を創造して人気を博する。この義太夫節から今日に伝わる人形芝居を伴う浄瑠璃が発達していった。古浄瑠璃とは、こうした義太夫節成立以前の段階の浄瑠璃を指す。

 
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)

京都市東山区にある仏堂で、正式には蓮華王院(れんげおういん)本堂と呼ぶ。蓮華王院は、長寛2(1164)年に後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が、平清盛(たいらのきよもり)に命じて、自身の離宮である法住寺殿内に造営した寺院。鳥羽上皇(とばじょうこう)が清盛の父平忠盛に造営させた得長寿院(とくちょうじゅいん)にならって、三十三間の細長い堂に、1,001体の観音像が安置された。なお、後白河が造営した蓮華王院は、建長元(1249)年の火災で焼失し、現在の堂は文永3(1266)年に再建されたものである。

 
後白河法皇(ごしらかわほうおう)

1127―92。鳥羽上皇(とばじょうこう)の第4皇子で、若い頃は「今様(いまよう、当時の流行歌)」に凝るなど芸能を好み、周囲からは天皇の位を継ぐ器とは見られていなかったという。しかし、近衛天皇(このえてんのう)の死去にともない、崇徳上皇(すとくじょうこう)の皇子の即位を望まない鳥羽上皇の意向もあって久寿2(1155)年に天皇となる。ついで、保元3(1158)年に皇子の二条天皇(にじょうてんのう)に譲位して上皇となり院政を行った。

治世中は、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)、その後の二条天皇との対立、続く平清盛(たいらのきよもり)の勢力拡大、源平が戦った治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱と鎌倉幕府の成立に至るまで、数多くの戦乱とめまぐるしい政治の変動が起こる動乱の時期であった。後白河はこの中で次々と現れてくる新勢力と対決、妥協をしつつ、数々の危機に瀕しながらも、最終的には院政・公家政権の一定の維持に成功した。建久3(1192)年3月没。

 
熊野本宮(くまのほんぐう)

和歌山県田辺市にある神社。現在の正式名称は熊野本宮大社。同県新宮市(しんぐうし)にある熊野速玉大社(熊野新宮)、同県那智勝浦町(なちかつうらちょう)にある熊野那智大社と合わせて、「熊野三山」と呼ばれ、古くから信仰されてきた。とくに平安後期の院政期には、院をはじめとする多くの貴族が参詣を繰り返すようになり、これ以後、熊野参詣は次第に社会の諸階層に広まっていった。

 
元曲(げんきょく)

中国元代(13―14世紀)に盛んになった雑劇、歌謡の総称。他の時代に比べてこのジャンルで優れた作品が多く、元代の文学を代表するものとして評価を受けている。