『播磨鑑』(はりまかがみ)

宝暦12(1762)年ごろに成立した播磨の地理書。著者は、播磨国印南郡平津村(はりまのくにいなみぐんひらつむら=現在の加古川市米田町平津)の医者であった平野庸脩(ひらのつねなが、ひらのようしゅう)。享保4(1719)年ごろから執筆が始められ、一旦完成して姫路藩に提出した宝暦12年以降にも補訂作業が進められた。著者の40年以上にわたる長期の調査・執筆活動の成果である。活字化されたものは、播磨史籍刊行会校訂『地志 播磨鑑』(播磨史籍刊行会、1958年)がある。

 
梶原景時(かじわらかげとき)

?―1200。相模国(さがみのくに=現在の神奈川県)の武士。治承4(1180)年の源頼朝(みなもとのよりとも)挙兵のとき、平家方として戦ったが、石橋山の合戦後、洞窟に隠れていた頼朝を見逃し、後に頼朝に重用されるようになったとされる。

頼朝が弟の範頼(のりより)、義経(よしつね)を派遣して源義仲(みなもとのよしなか)や平家との戦いを進めると、軍勢の一員として派遣された。元暦2(1185)年、四国へ向けて渡海しようとした時に義経と論争を起こしたとされ、また平家滅亡後、義経を頼朝に讒言(ざんげん)し、その結果頼朝と義経の中が断絶したとされるなど、義経との不和が語られてきた。ただしその一方で、一の谷の合戦では子息の景季(かげすえ)を救うために、再度敵中へ突撃したなどの美談も語られている。

頼朝が没した直後の正治元(1199)年、新将軍頼家(よりいえ)に、結城朝光(ゆうきともみつ)が謀反を企てていると讒言したが、逆に有力御家人66人連名の弾劾文を出され失脚した。翌年1月、謀反を企てて京都に向かったが、駿河国で現地の武士に阻まれ、討ち死にした。

 
五輪塔(ごりんとう)

供養塔、墓塔として造られることが多かった仏塔の一種。石製のものが多く残る。下から順に、基礎にあたる方形の地輪(ちりん)、円形の水輪(すいりん)、笠形の火輪(かりん)、半球形の風輪(ふうりん)、宝珠形(ほうしゅがた)の空輪(くうりん)の五段に積み、古代インドで宇宙の構成要素と考えられていた、地、水、火、風、空(五大、ごだい)をあらわす。密教の影響が強く、石塔としては平安時代末期からの遺品が知られている。

 
足利義稙(あしかがよしたね)

1466―1523。室町幕府10代将軍。初めの名は義材(よしき)、ついで明応7(1498)年に義尹(よしただ)、さらに永正10(1513)年に義稙(よしたね)と改名した。延徳2(1490)年に将軍となり、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)の六角(ろっかく)氏、河内国(かわちのくに=現在の大阪府東部)の畠山(はたけやま)氏の討伐を進めたが、明応2(1493)年、管領(かんれい)細川政元(ほそかわまさもと)のクーデターによって将軍職を失った。

その後越中国(えっちゅうのくに=現在の富山県)に移って畠山氏を頼って京都奪回を目指すが失敗。ついで周防国山口(すおうのくにやまぐち=現在の山口県山口市)の大内義興(おおうちよしおき)を頼り、細川氏の分裂に乗じて永正5(1508)年に大内義興・細川高国(ほそかわたかくに)とともに京都に復帰し将軍職に返り咲いた。

しかし、自らを擁立した細川高国、大内義興の専横に不満を持ち、永正10年に京都を出奔して近江国甲賀(こうか=現在の滋賀県甲賀市)に移る。この時は大内義興の譲歩により帰京するが、大永元(1521)年に再び細川高国と不和となり淡路国に出奔、将軍職を失った。その後阿波国(あわのくに=現在の徳島県)へ移り、大永3(1523)年に没した。

 
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

1288―1339。文保2(1318)年即位。元亨元(1321)年に父後宇多法皇の院政が停止され、以後親政を行う。正中元(1324)年、後醍醐の倒幕計画が発覚し、側近の日野資朝(ひのすけとも)らが処罰される(正中の変)。さらに元弘元(1331)年、再度の倒幕計画が発覚したため、京都を脱出し笠置山(かさぎやま)に立てこもるが、幕府軍に敗れた。幕府方は光厳天皇を即位させ、後醍醐は隠岐国(おきのくに=現在の島根県隠岐諸島)に流罪(るざい)となった。

しかし、元弘3/正慶2(1333)年、後醍醐は隠岐を脱出、このころ近畿周辺で活動していた護良親王(もりよししんのう)、赤松円心(あかまつえんしん)、楠木正成(くすのきまさしげ)らの勢力に、討伐のために幕府から派遣されていた足利高氏(あしかがたかうじ)らの有力御家人も加わり、5月に六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、同じころ関東でも新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府は滅亡した。

帰京した後醍醐は建武の新政を始めるが、天皇専制を目指す性急な改革は社会の反発を招き、建武2(1335)年、鎌倉北条氏の残党蜂起(中先代の乱)の鎮圧のために東国へ向かった足利尊氏が、鎌倉で後醍醐から離反を明らかにしたことで崩壊した。後醍醐方は一旦は尊氏を破るが、九州へ落ち延びた尊氏方は勢力を盛り返し、建武3(1336)年5月の湊川(みなとがわ=現在の神戸市兵庫区)の戦いに勝利し、ついで京都を占領した。後醍醐は比叡山(ひえいざん)に立てこもり抗戦するが、足利方の勧めによって三種の神器を引き渡して和議を結ぶ。足利方は、光厳上皇の院政のもと、光明天皇(こうみょうてんのう)を即位させ、尊氏は建武式目(けんむしきもく)を定めて室町幕府を開いた。

しかしその直後、後醍醐は大和国吉野(やまとのくによしの=現在の奈良県吉野町)に脱出して朝廷を開いた。これ以後、京都の朝廷(北朝)と、吉野の朝廷(南朝)が並立しての抗争が続く。後醍醐は、皇子や重臣たちを全国各地へと送り、北朝方に対抗させた。しかし劣勢が続く中、暦応2/延元4(1339)年に病により吉野で死去した。

 
『太平記』(たいへいき)

南北朝内乱を描いた軍記物。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による倒幕計画から始まり、幼い足利義満(あしかがよしみつ)の補佐役に細川頼之(ほそかわよりゆき)が就任するころまでを描く。

南北朝時代後半までに、室町幕府による校閲を含めて、何段階かの書き継ぎ、改訂を経て成立していったと見られている。作者は「小嶋法師(こじまほうし)」とする史料があるが、その実像についてはよくわからず、また何段階かの書き継ぎがあったとすれば複数の作者を想定する必要があるが、その他の作者についてもよくわかっていない。

 
尊良親王(たかよししんのう)

?―1337。後醍醐天皇の第一皇子。元弘元(1331)年に父天皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、それにしたがって笠置山に立てこもり、ついで楠木正成の河内の居城へ移った。しかし、10月に捕らえられて土佐国幡多(とさのくにはた=現在の高知県中村市付近)へ流罪(るざい)となった。

建武の新政が始まると帰京したが、建武3(1336)年に反旗を翻した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都を攻め落とすと、弟の皇太子恒良親王(つねよししんのう)、新田義貞(にったよしさだ)とともに越前国(えちぜんのくに=現在の福井県東部)に下り、金ヶ崎城(かねがさきじょう=現在の福井県敦賀市)に入った。しかし、翌年3月、足利方の攻撃によって金ヶ崎城は落城、両親王も自害した。

なお、名前の読みについては、「たかなが」とも読まれてきている。この点については、本用語解説の「大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)」の項目を参照されたい。

 
『平家物語』(へいけものがたり)

鎌倉時代前半に成立した軍記物語。平家の興隆と滅亡を、仏教的な無常観を底流に置きながら記した書物。著者については、天台座主慈円(てんだいざすじえん)の周辺の人物が執筆したとの説などが注目されているが、確定的な説はない。『保元物語(ほうげんものがたり)』、『平治物語(へいじものがたり)』、『承久記(じょうきゅうき)』とともに、「四部合戦状(しぶかっせんじょう)」とも称される。これらの書物は、一定の事実を示す史料や当事者の証言などをも参照しながら執筆されたと考えられている。したがって、記述の中の事実を記す部分と物語的な創作の部分との区別は、それぞれについて吟味する必要がある。