宝筐印塔(ほうきょういんとう)

本来は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めるための塔。日本ではとくに石塔の場合、墓碑や供養塔として建てられるようになっていた。石塔としては、鎌倉時代中ごろからの遺品が残る。形状は、方形の基礎、基礎よりも小ぶりな塔身、笠形の屋根、円筒状の相輪からなる。屋根には四隅に隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起が立てられる。この隅飾りの開きぐあいに時代ごとの特徴がよくあらわれ、古いものほど直立し、新しいものは外側へ開いていく傾向がある。

 
神功皇后(じんぐうこうごう)

『古事記(こじき)』、『日本書紀(にほんしょき)』の神話に現れる伝説上の人物。夫である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の急死後、住吉の神のお告げによって、子供の応神天皇(おうじんてんのう)を妊娠したまま朝鮮半島に出兵して、朝貢を約束させたという。また、朝鮮半島から畿内へ帰る途中、香坂皇子(かごさかおうじ)、忍熊皇子(おしくまおうじ)が反乱をおこして行く手をさえぎったが、これを平定したという。

 
源義経(みなもとのよしつね)

1159―89。源義朝(みなもとのよしとも)の九男。平治の乱(1159年)で父が敗死した後、鞍馬山(くらまやま)に預けられるが、後に脱出して陸奥国平泉(むつのくにひらいずみ=現在の岩手県平泉町)へ向かい、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護を受けた。

治承4(1180)年に兄の頼朝(よりとも)が挙兵すると平泉を離れてこれに合流する。寿永2(1183)年末に兄の範頼(のりより)とともに頼朝の代官として軍勢を率いて出陣し、翌年1月に源義仲(みなもとのよしなか)を討ち取る。ついで同年2月には一の谷の戦い(いちのたにのたたかい=現在の神戸市)で平家に壊滅的打撃を与えた。翌元暦2(1185)年2月に讃岐国屋島(さぬきのくにやしま=現在の香川県高松市)で平家を破り、続いて3月に長門国壇ノ浦(ながとのくにだんのうら=現在の山口県下関市)で平家を滅ぼした。

しかしその直後から頼朝との対立が深まり、文治元(1185)年11月に西国へ向けて都を離れるが、大物浦(だいもつうら=現在の尼崎市)付近で嵐のために遭難、以後陸奥国平泉へ逃れて再び奥州藤原氏の庇護を受ける。しかし、秀衡没後の文治5(1189)年4月、頼朝からの圧力に屈した藤原泰衡(やすひら)によって殺害された。

 
高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)

和歌山県高野町(わかやまけんこうやちょう)にある高野山真言宗(しんごんしゅう)の総本山。京都の東寺(とうじ)とともに、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が活動拠点にした寺院として真言密教(しんごんみっきょう)の聖地とされる。

弘仁2(816)年、空海は真言密教の道場として、高野山の地を朝廷から与えられ、伽藍(がらん)を建立した。紀行文「鳥」で述べた、高野明神と丹生都比売明神から寺地を譲られたとの伝説は、平安中期に成立したと見られる『金剛峰寺修行縁起(こんごうぶじしゅぎょうえんぎ)』から見られるものである。

 
弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)

774―835。日本に真言密教(しんごんみっきょう)をもたらした平安時代初めの僧侶。同じ時期に天台宗をもたらした伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)とならんで、この時期の日本仏教を代表する人物。延暦23(804)年遣唐使留学僧として入唐。長安(ちょうあん)青龍寺の恵果(えか、「けいか」とも言う)に真言密教を学ぶ。大同元(806)年帰国。弘仁7(816)年朝廷より高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を開くことを許される。弘仁14(823)年朝廷より東寺(とうじ)を与えられ、真言密教の道場とした。承和2(835)年死去。延喜21(921)年、朝廷から弘法大師の諡号(しごう、死後の贈り名)が与えられた。