佐渡島の団三郎狸
(さどがしまのだんざぶろうだぬき)

佐渡島の狸の大将とされる。夜道を歩く人を壁を作り出しておどかす、蜃気楼で化かす、木の葉を化かした銭で買い物をする、などの話が伝わっている。また、芝右衛門狸とよく似た狐との化けくらべ話もある。加賀国で狐と化けくらべをすることになり、団三郎が大名行列に、狐が奥女中に化けて殿様に声をかける、とのことになった。やがて大名行列がやってくると、狐は女中となって殿様の籠に声をかけようとしたが、実は本物の大名行列で狐は斬られそうになり、あわてて逃げていった、という。

なお、佐渡では狸を狢(むじな)と呼ぶので、団三郎狢と呼ぶのが一般的である。

 
讃岐屋島の禿狸(さぬきやしまのはげだぬき)

香川県高松市屋島にある屋島寺の守護神で、四国の狸の総大将とされる。源平の屋島合戦での様子を幻術で再現するなどしたという。後に猟師に撃たれて死んでしまうが、その霊が阿波に移り住んだともされている。

 
安宅氏(あたぎし(あたかし))

紀伊国安宅荘(きいのくにあたぎのしょう=現在の和歌山県白浜町)を本貫地とする武士。南北朝時代から水軍としての活躍が知られ、やがて淡路にも勢力を広げた。由良城(ゆらじょう)や洲本城を拠点としたとされ、戦国時代には三好(みよし)氏に従うようになった。

 
脇坂安治(わきざかやすはる)

1554―1626。近江国脇坂(おうみのくにわきざか=現在の滋賀県湖北町)出身の武士。羽柴秀吉(はしばひでよし)に仕え、天正11(1583)年の賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)で活躍、賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)の一人に数えられる。天正13(1585)年淡路洲本3万石の領主となる。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では、はじめ西軍に属したが、小早川秀秋らとともに東軍に寝返った。慶長14(1609)年伊予国大洲(いよのくにおおず=現在の愛媛県大洲市)5万3千石余に転封。寛永3(1626)年京都で没。子孫は後に播磨龍野(たつの=現在のたつの市)藩主となる。

 
蜂須賀氏(はちすかし)

尾張国蜂須賀(おわりのくにはちすか=現在の愛知県美和町)から出た領主。織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正13(1585)年に阿波国(あわのくに=現在の徳島県)一国を与えられる。ついで大坂の陣(1615年)の後、淡路一国を加増され、25万石余となる。その後代々徳島藩主として幕末に至る。

 
『絵本百物語』(えほんひゃくものがたり)

天保12(1841)年刊。別名『桃山人夜話(とうさんじんやわ)』。文章は桃花園三千麿が執筆、画は竹原春泉(たけはらしゅんせん)が描き、45種の妖怪話を多色刷りの絵とともに紹介している。

 
『播磨府中めぐり』(はりまふちゅうめぐり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。芦屋道海(あしやどうかい)著。末尾に天正4(1576)年4月7日とあり、このころの成立と見られる。播磨府中(姫路)周辺の城跡、社寺、名所などを詳細に記し、池田輝政(いけだてるまさ)による現姫路城築城以前の姫路を知るうえで重要な史料である。ただし、後世の補筆も多く見られる。著者の芦屋道海は、英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)の住人で、平安時代の陰陽師芦屋道満の子孫を称したという。『播陽万宝智恵袋』には、この他に、『近村めぐり一歩記』、『播州巡行(考)聞書』も道海の著書として収録されている。また、『播磨鑑(はりまかがみ)』にも道海の和歌が見える。

 
『播州府中めぐり拾遺』
(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。寛延3(1750)年、三木通識著。同書に収められた芦屋道海(あしやどうかい)著『播磨府中めぐり』の注釈書としての性格を持ち、姫路周辺の寺社、古跡などについての考証を加えた書物。三木通識は18世紀前半から中ごろにかけて活動した姫路の文人。幼少より学を好み、多くの著作を残した。『播陽万宝智恵袋』にも、通識の著作は17点収められている。

 
『播州故事考』(ばんしゅうこじこう)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻14収録。天正4(1576)年赤松寿斎(あかまつじゅさい)の著。播磨の寺社やさまざまな故事を記したもの。著者の赤松寿斎については詳しいことはわからないが、『播陽万宝智恵袋』巻44の『播州諸家注進』も、寿斎の著と記されている。

 
『播州雄徳山八幡宮縁起』
(ばんしゅうゆうとくさんはちまんぐうえんぎ)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻17収録。寛延3(1750)年三木通識著。現姫路市山野井町(ひめじしやまのいちょう)にある男山(おとこやま)とその周辺にある寺社の、由来、変遷、伝説などを記したもの。著者の三木通識については、本用語解説の『播州府中めぐり拾遺(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)』項目を参照されたい。

 
『近村めぐり一歩記』(きんそんめぐりいっぽき)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。芦屋道海(あしやどうかい)著。本文中に、天正3(1575)年3月7日に著者が居住していた英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)のあたりを一巡して書いたもので、同4年3月30日にもう一度歩いて補訂した、とされている。英賀を中心に、西は姫路市網干区和久(ひめじしあぼしくわく)付近、北は太子町の鵤(いかるが)あたり、東は現在の姫路駅付近から飾磨港(しかまこう)あたりまでが記録され、社寺、名所、伝説などが記されている。中世最末期の姫路周辺を示す、数少ない史料の一つである。著者の芦屋道海については、本用語解説の『播磨府中めぐり』項目を参照されたい。

 
『播陽うつつ物語』(ばんよううつつものがたり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻39収録。奥書によると、天正元(1573)年12月10日の夜、赤松了益(あかまつりょうえき)が久保玄静(くぼげんせい)に話した内容をまとめたもので、剣持清詮(けんもちきよあき)が所蔵していた本を三木通識が元禄年間に転写し、延享5(1748)年に校訂したものとされる。播磨の古跡の由来や物語が、別の本からの引用を含めて記されている。著者の赤松了益は、龍野赤松氏の一族で、戦国末期から安土桃山時代にかけて龍野で医業を営む傍ら著述を行った人物とされ、『播陽万宝智恵袋』にも他に3点の著書が収録されている。