松帆神社(まつほじんじゃ)

 淡路市久留麻(くるま)に所在する神社。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。社伝では、楠木正成が湊川の合戦で戦死した際、家臣が正成の守護神である八幡大神を久留麻の地に祭ったのが始まりと伝える。明治14(1881)年に松帆神社と改称した。宝物として、後鳥羽上皇(1180~1239)の時代に皇室刀鍛冶筆頭であった福岡一文字則宗(ふくおかいちもんじのりむね)の「菊一文字」(国指定重要美術品)、伎楽面ほか多数を蔵する。

 
応神天皇(おうじんてんのう)

 『日本書紀』によれば第15代の天皇。仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇子で、母は神功皇后とされる。名は誉田別命(ほむたわけのみこと)。記紀によれば在位は41年で、西暦310年に111歳あるいは130歳で没したとされる。伝説的色彩の強い天皇であるが、 『宋書』の東夷伝に見える倭王讃(さん)を、応神天皇にあてる説がある。陵墓は大阪府羽曳野市(はびきのし)に所在する、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)に比定されている。誉田御廟山古墳は、全国で第2位の、全長425mを測る前方後円墳で、築造は5世紀前半と考えられている。

 
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

 記紀によれば第14代の天皇で、没年は西暦200年。陵墓は、大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長242m)に比定されている。記紀ではヤマトタケルノミコトの子とされているが、記載された没年と年齢から計算すると、父の死後36年を経て誕生したことになる点、名の「タラシナカツヒコ」に用いられる「タラシ」が、7世紀代に実在した天皇の名にも用いられている点などから、架空の天皇とする説もある。

 
神功皇后(じんぐうこうごう)

 『日本書紀』によれば、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后。名を息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)という。仲哀天皇の死後、これに代わって朝鮮へ出兵して、新羅を討ち、百済・高句麗を帰服させたとされるが、これは日本を大国として位置づけるための架空の説話である。

 
生穂賀茂神社(いくほかもじんじゃ)

 淡路市生穂(いくほ)に所在する神社。生穂に京都の上賀茂神社の荘園が置かれていたことから、当地でも賀茂神(かものかみ)が氏神として祭られるようになったとされている。後に、春日神(かすがのかみ:智神)、貴船神(きぶねのかみ:水神)、白鬚神(しらひげのかみ:土神)も祭られるようになったことから、四社明神とも呼ばれて崇敬が厚い。

 
上賀茂神社(かみがもじんじゃ)

 京都市北区上賀茂に所在する式内社(しきないしゃ)。正式名称は賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)。山城国一宮。賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに、古代賀茂氏の氏神(賀茂別雷大神)を祭る。葵祭(あおいまつり)は京都三大祭の一つとして有名。桓武天皇(かんむてんのう)が平安京に遷都して以来、都を守る神として祭られてきた。神社としては伊勢神宮に次ぐ地位にある。

 
荘園(しょうえん)

 奈良時代から戦国時代まで存在した、田地を中心とした私有地。所有者は、主として貴族や寺社で、政治的地位を有する者であった。現在、文献で知られる荘園は4,000か所近くあり、東北地方から九州地方まで分布するが、特に近畿地方に集中している。

 
八幡神(はちまんしん)

 農耕神または海の神とされている。総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)であるが、全国に数千の神社があり、稲荷社に次ぐ信仰を集めている。元は宇佐地方一円にいた大神氏(おおみわし)の氏神であったとも考えられているが、現在では、応神天皇、神功皇后、比売神の3神を合わせて八幡神(八幡三神)として祭られている。

 
先山(せんざん)

 洲本市北西にある山。標高は448m。その山容から、淡路富士とも称される。山頂には千光寺が建つ。江戸時代の画家、谷文晁(たにぶんちょう)の『名山図譜』にも描かれるなど、古くから知られる山である。シイ、カシなどの暖帯樹林に覆われ、この山系にのみ生息する昆虫も知られている。

 
千光寺(せんこうじ)

 洲本市上内膳(かみないぜん)の、先山山頂に所在する真言宗の寺院。先山(せんざん)と号する。本尊は千手観音。寺伝によれば、平安時代延喜元(901)年の開基とされ、縁起として狩人忠太と大猪の伝説が伝えられている。このほか『淡路通記(あわじつうき:17世紀末成立)』には、性空上人(しょうくうしょうにん)、役小角(えんのおづぬ)やイザナギ・イザナミにまつわる伝承が記録されている。境内の鐘楼にある鐘は、弘安6(1283)年の銘をもち、重要文化財に指定されている。

 
札所(ふだしょ)

 仏教の霊場で、参詣したしるしに札を受けたり、納めたりするところ。西国三十三箇所、四国八十八箇所など。

 
 
六十六部廻国納経(ろくじゅうろくぶかいこくのうきょう)

 法華経を書写し、全国の66か国の霊場に1部ずつ納経する巡礼行。この巡礼に従事する行者を六十六部行者、廻国聖(かいこくひじり)などと呼ぶ。鎌倉時代末から室町時代にかけて流行した。兵庫県下でも、神戸市北区淡河町(おうごちょう)の勝雄経塚(かつおきょうづか)で、経巻を入れた金銅製の経筒が発掘されている。

 
広田八幡神社(ひろたはちまんじんじゃ)

 南あわじ市広田広田に所在する神社。祭神は応神天皇。寿永3(1184)年、平家追討中の源頼朝が摂津の広田社(西宮市)に広田荘を寄進し、戦勝を祈願したことに始まるという。神社は明治32(1899)年に失火で全焼し、現在残っている社殿は4年後に再建されたもの。隣接して広田梅林があり、観光地となっている。

 
大宮寺(だいぐうじ)

 南あわじ市広田広田に所在する真言宗の寺院。広林山(こうりんざん)と号する。本尊は阿弥陀如来。開基は不詳であるが、安土桃山時代に中興された。かつては末寺や奥の院も有していたとされ、奥の院跡からは、平安時代末期の瓦が出土している。

 
源頼朝(みなもとのよりとも)

 鎌倉幕府初代将軍(1147~99)。源義朝(よしとも)の三男。平治の乱で敗走する途中捕らえられ、伊豆へ流された。その後、以仁王(もちひとおう)の令旨により挙兵し、一度は敗れたものの関東地方の武士の支持を受け、鎌倉で政権を樹立した。のち、源範頼(のりより)・義経(よしつね)らを大将として、源義仲(よしなか)、平氏一門を討って京都を確保した。平氏滅亡後は、院に接近していた義経を追い、その追捕を理由として諸国に守護・地頭を置いて政権を確固たるものとした。1192年、征夷大将軍に任ぜられた。

 
淡路名所図会(あわじめいしょずえ)

 18世紀末~19世紀初めに制作された名所図会。当時の名所旧跡、寺社などが描かれた肉筆本である。編者は不明。淡路の名所を記した書物としては、暁鐘成(あかつきのかねなり)が編纂した『淡路国名所図絵』(1851)が知られているが、本書は内容が全く異なる。当時の景観などを知る上で重要な資料。

 
天明の縄騒動(てんめいのなわそうどう)

 天明2(1782)年に起こった淡路島最大の農民蜂起。当時淡路を領していた徳島藩が出した「増米法」と「木綿会所法」によって、農民は生活を圧迫されていた。ここへさらに、洲本の藩庁役人が出した縄を供出させて大坂で販売するための法を出したため、合計12か村の農民が、下内膳村の組頭庄屋であった広右衛門方へ押し寄せて、法の廃止を陳情した。これに対して徳島藩は縄供出の法などを廃止し、藩の責任者を処分したが、一揆(いっき)の首謀者も捕縛され、広田宮村の才蔵と山添村の清左衛門は打ち首となった。この両名の供養碑は、島内に4基が残されており、大宮寺境内には事件の記念碑がある。

 
荒神(こうじん)

 「猛々しい神」の意味をもつ言葉であるが、同時に霊験ある神をも指す。また、三宝荒神(さんぼうこうじん:仏教の三宝(仏・法・僧)を守護する神)を指す。三宝荒神は不浄を忌み、火を好むとされることから、近世以降はかまどの神として祭られた。