妙見山(みょうけんさん)

 兵庫県下では各地にこの名を冠した山があるが、ここでは養父市に所在する山。標高は1,139m。氷ノ山後山那岐山国定公園(ひょうのせんうしろやまなぎさんこくていこうえん)に属し、ブナの原生林をはじめ植生がよく保存され、動物も豊富である。

 
日光院(にっこういん)

 養父市八鹿町石原に所在する真言宗の寺院。妙見山(みょうけんさん)と号する。本尊は弘法大師作と伝えられる妙見大菩薩。日本三妙見に数えられる。寺伝によれば、敏達天皇(びだつてんのう:6世紀)の時、日光慶重(にっこうけいちょう)が草庵を開いたのがはじまりという。永禄・天正年間(16世紀)には最盛期を迎え、妙見信仰の一大霊場となった。現在名草神社に残る三重塔(重要文化財)は、この時期に出雲大社より日光院へ寄贈されたものである。しかしその後、羽柴秀吉による山陰攻略の兵火で堂宇の多くを焼失したという。江戸時代には復興したが、明治5(1872)年の神仏分離令により、現名草神社と分離した。妙見信仰を示す史料は「日光院文書」として県指定文化財。

 
妙見菩薩(みょうけんぼさつ)

 仏教における信仰対象である天部(てんぶ:仏法を守護する天界の善神の総称)の一つ。妙見菩薩は他の菩薩と異なり、インドが発祥ではなく中国で成立した。中国では北斗七星を信仰する思想があり、これが仏教思想と融合して神格化されたものが妙見菩薩だという。「妙見」は、見る力に優れた者の意味であり、真理や善悪を見る力に優れた仏であることを示す。国土を守り幸福をもたらすとされ、日本では、奈良時代から信仰の対象となってきた。全国に散らばる「妙見山」は、妙見菩薩信仰が広くおこなわれていたことを示すものである。

 
名草神社(なぐさじんじゃ)

 養父市石原に所在する式内社(しきないしゃ)。妙見山山腹の、標高800m付近に位置する。祭神は名草彦命(なぐさひこのみこと)ほか6神だが、北辰(北極星)とされる天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を含むことから、同地の帝釈寺と一体化して、平安時代末より妙見信仰の場となっていたという。明治5(1872)年の神仏分離令により、現日光院と分離した。日光東照宮を模した本殿、厳島神社を模した拝殿は県指定文化財。また、16世紀に出雲大社より寄贈された三重塔は国の重要文化財。

 
神仏分離(しんぶつぶんり)

 明治時代初め、政府が天皇の神権的権威確立のためにとった宗教政策。従来習合していた神道と仏教を分離することを旨とする。この政策が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動となって、全国で仏教に対する破壊的活動が起こり、廃寺となる寺院が続出した。

 
出雲大社(いずもたいしゃ)

 島根県出雲市大社町に所在する式内社(しきないしゃ)。出雲国一宮。祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ)。記紀神話では、大国主神が天津神に出雲国を譲るよう言われた時に、「国譲りの代償として、この地に立派な御殿を建ててほしい」と求めて建てられたのが、出雲大社の始まりであるという。縁結びの神様としても知られ、神在月(かみありづき:一般的には神無月(かんなづき)と呼ぶが出雲国のみは神在月と称する。10月のこと)に、全国から八百万の神々が集まり神議がおこなわれるという話はあまりにも有名である。

 
出雲国(いずものくに)

 律令下の国の一つ。現在の島根県東半部にあたる。国府・国分寺は、現在の松江市に置かれた。

 
守護大名(しゅごだいみょう)

 南北朝期~室町時代に、将軍足利氏によってその国の支配を委任された守護。主に足利氏の一門や有力家臣が任命された。守護は幕府から与えられた権限を利用して、国人(こくじん:領地を所有する在地の武士)層を家臣として組織化し、この結果、守護と国人層による領国制度が成立していったとされている。

 
尼子経久(あまこつねひさ)

 戦国大名(1458~1541)。出雲国守護代であった尼子清定の子。はじめ守護代となったが、1484年、室町幕府に追われて流浪した。その後勢力を回復して、因幡(いなば:現在の鳥取県東部)以西の山陰地域を攻略し、山陽道にも進入した。このため周防(すおう:現在の山口県東部)の大内氏と対立したが、自身の配下であった毛利元就(もうりもとなり)が大内氏と結んだため、以後は大内・毛利の両氏と交戦した。

 
箕谷古墳群(みいだにこふんぐん)

 養父市八鹿町小山に所在する、古墳時代後期の5基の円墳からなる古墳群。円山川支流である八木川の、左岸に派生する尾根に挟まれた谷に立地する。1983~84年に体育施設建設に伴う発掘調査がおこなわれ、2号墳から「戊辰(ぼしん)年五月□」の銅象嵌(どうぞうがん)銘文がある大刀が出土して注目を集めた。「戊辰年」は、西暦608年とされており、同古墳で出土した須恵器(すえき)とともに、古墳の年代を研究する上での基準資料となっている。箕谷古墳群は国史跡、大刀は重要文化財に指定されている。

 
推古天皇(すいこてんのう)

 第33代の天皇(554~628)で、史上初の女性天皇。母は蘇我氏の出身。敏達天皇(びだつてんのう)の皇后であったが、その没後に立った用明天皇(ようめいてんのう)がわずか2年で病死、さらに崇峻天皇(すしゅんてんのう)が在位5年で死亡(蘇我馬子による暗殺説がある)すると、蘇我氏に推されて即位した。厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を摂政とし、大臣蘇我馬子との均衡を図りつつ政治を運営した。その治世には冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使(けんずいし)の派遣、法隆寺の建立、国史の編纂など、政治制度の整備や文化の振興などがおこなわれた。

 
厩戸皇子(うまやどのおうじ)

 用命天皇の皇子(574~622)。聖徳太子は諡名(おくりな:死後に贈られる名)。おばに当たる推古天皇の摂政として、政権の整備をおこなった。冠位十二階と十七条憲法の制定(ただし十七条憲法については、『日本書紀』編纂時の創作とする説もある)、遣隋使(けんずいし)派遣などの業績は著名である。大陸文化の導入、仏教興隆に尽力し、四天王寺、法隆寺などを建立した。

 
蘇我馬子(そがのうまこ)

 飛鳥時代の中央豪族(?~626)。地位は大臣(おおおみ)。大連(おおむらじ)であった物部守屋を滅ぼし、天皇との姻戚関係を利用して勢威をふるった。仏教を受容し、法興寺(ほうこうじ:馬子が建立した日本最古の伽藍。飛鳥寺)を建立した。子は蘇我入鹿。

 
法隆寺(ほうりゅうじ)

 奈良県生駒郡斑鳩町に所在する聖徳宗の寺院。聖徳太子が建立した寺院のひとつで、創建年代は7世紀の前半とされる。創建時の伽藍は670年に焼失したことが『日本書紀』に記録されており、金堂、五重塔などがある現在の西院伽藍は、その後に再建されたものと考えられている。西院伽藍は、木造建築としては世界最古のもので、建築のうち西院伽藍と東院伽藍の夢殿が国宝に指定されているほか、仏像、工芸品などに多数の国宝がある。1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界文化遺産に登録。

 
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

 飛鳥時代、舒明天皇(じょめいてんのう)の皇子(626~71)。後の天智天皇(てんじてんのう)。中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし、孝徳・斉明の両天皇の皇太子として、大化改新後の政治を主導した。外交では百済を支援したが、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した。668年に滋賀県の大津京で即位。

 
円山川(まるやまがわ)

 兵庫県北部を流れて日本海に注ぐ但馬最大の河川。朝来市円山から豊岡市津居山(ついやま)に及ぶ延長は67.3km、流域面積は1,327平方キロメートル。流域には平野が発達し、農業生産の基盤となっている。河川傾斜が緩やかで水量も多いため、水上交通に利用され、鉄道が普及するまでは重要な交通路となっていた。