【丹波焼】たんばやき

 丹波篠山市今田町周辺で生産された陶器。丹波立杭焼、または立杭焼とも称し、瀬戸、常滑(とこなめ)、信楽(しがらき)、備前、越前とともに日本六古窯の一つに数えられ、その起源は平安時代末にさかのぼる。

 丹波焼は、古墳時代から続く須恵器生産の上に、常滑焼など東海系陶器の影響を強く受けて成立したが、室町時代にはその影響から脱して独自性を確立した。近世に入ると施釉陶器(せゆうとうき)の生産が始まり、釉薬や化粧土に独特の技法が用いられたほか、鮮やかな色絵陶器も生産されるようになった。太平洋戦争後は、近代的な工場による陶磁器生産に圧迫されたが、その苦境を乗り越えて現在に至っている。

 中世には壺(つぼ)、甕(かめ)、すり鉢などの日用器を主に生産し、この伝統は近世にも引き継がれて徳利など庶民生活に関わる焼物を生産したほか、高級品としての茶器の生産もおこなわれるようになった。1978年「丹波立杭焼」の名称で国の伝統的工芸品指定。

 
【和田寺】わでんじ

 丹波篠山市今田町にある天台宗の寺院。二老山(にろうさん)と号する。今田町のほぼ中央に位置しており、646年に法道仙人が和田寺山頂に建立した堂に始まるとされる。1184年に堂宇をすべて焼失、再建されたが山頂での寺院維持が困難となったため、ふもとに移転して本堂が再建された。1392年より寺号を現在の二老山和田寺とした。

 
【篠山城】ささやまじょう

 丹波篠山市北新町にある近世の平山城。1609年、徳川家康の実子松平康重が家康の命を受けて築城を開始し、15か国20大名を動員して、わずか6か月で完成したという。

 全体の平面は方形で、輪郭式(りんかくしき)と梯郭式(ていかくしき)を融合した形式となっている。本丸、二の丸、三の丸は石垣と土塁で囲み、二の丸と三の丸の間には内堀がめぐる。三の丸の外側に外堀がめぐり、北、東、南には馬出(うまだし)が設けられている。天守閣は当初から建設されなかった。

 初代城主は松平康重。以後8代にわたって松平氏が藩主をつとめ、その後は青山氏6代が藩主となって明治維新を迎えた。

 明治維新後に大書院を除くすべての建物が取り壊され、大書院も1944年に焼失、2000年に復元された。国指定史跡。

 
【安間家史料館】あんまけしりょうかん

 安間家資料館は、天保元(1830)年以降に建てられた武家屋敷で、代々安間家の住宅として使用されてきたものである。安間家は、禄高(ろくだか)12石3人扶持(天保8年ころ)の徒士(かち)であった。住宅は、入母屋造り、茅葺(かやぶ)きで間口6間半×3間半,奥行き4間×2間半の曲屋であり、建築当初の形をよく残している。1994年に篠山市(現:丹波篠山市)の指定文化財となり、内部には安間家に残された古文書や日常に用いられた食器類や家具を始め、その後寄贈を受けた篠山藩ゆかりの武具や資料を中心に展示している。

 
【うだつ】うだつ

 民家で、妻の壁面を屋根より高く造った部分。また、建物の外側に張り出して設けた防火用の袖壁(そでかべ)。

 
【袖壁】そでかべ

 建物から外部へ突出させる幅の狭い壁。目隠し・防火・防音などのために用いられる。

 
【王子山焼】おうじやまやき

 文政元(1818)年から、明治2(1869)年まで、丹波篠山市王子山で焼かれた陶磁器。篠山焼とも呼ばれる。当初は篠山藩主青山忠裕により始められた「お庭焼」であったが、後には地元の商人が運営を引き継いだ。

 主に磁器を生産し、青磁、染付、白磁などが焼かれている。製品には花器、鉢、文房具、水差し、徳利、皿、置物などがある。

 文政11(1928)年に、欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)を招いて指導を受け、亀祐自身の作品も残された。

 
【雲部車塚古墳】くもべくるまづかこふん

 丹波篠山市東本庄にある古墳時代中期の前方後円墳。全長142mをはかり、盾形の周濠(しゅうごう)をめぐらせる。明治29(1896)年に、当時の雲部村の人々によって後円部の石室が発掘され、その内容が精密に記録された。それによれば、石室は割石積みの竪穴式(たてあなしき)石室で、長さ5.2m、幅1.5m、高さ1.5mとされている。石室内には長持形石棺が置かれており、周囲の壁に設けられたL字形金具に掛けられたような状況で、槍や刀剣類が副葬されていたという。

 この際には石棺の蓋(ふた)は開けられなかったが、石室内の副葬品として、刀34本、剣8本、鉾(ほこ)2本、鎧(よろい)鉢4点、鎧胴5点、鏃(やじり)107点が記録された。その一部は、現在京都大学に保管されている。

 雲部車塚は、畿内から但馬、丹後へ抜ける交通の要衝に位置する大規模な前方後円墳であり、畿内政権と深い関係をもつ王の墓と考えられる。その後陵墓参考地に指定され、現在は宮内庁の管理下に置かれているため、新たな調査はおこなえない状況であるが、1896年の記録によって大型前方後円墳の埋葬状況を知ることができる、極めて重要な古墳である。

 
【陵墓・陵墓参考地】りょうぼ・りょうぼさんこうち

 一般に、天皇・皇族の墓を総称して陵墓といい、皇族の墓所である可能性がある場所を陵墓参考地と呼ぶ。陵墓および陵墓参考地は宮内庁によって管理されており、研究者などが自由に立ち入って調査することができない。一部の古墳では、比定される天皇と古墳の年代に明らかな相違が見られ、当該天皇陵であることに疑義が出されている。考古学的には、古墳の名称はその古墳が所在する地名(字名など)を用いることが原則であり、○○天皇陵という呼称は用いない(例:仁徳天皇陵=大仙(だいせん)古墳、応神天皇陵=誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳など)が、「仁徳天皇陵古墳」といった用い方をする例もある。

 
【長持形石棺】ながもちがたせっかん

 長持形石棺は、古墳時代中期に盛行した石棺。底石の上に側石と小口石をはめ込み、かまぼこ形の蓋(ふた)をのせる。蓋石の各辺や側石の両端に1~2個の突起(縄かけ突起)を作り出す。加古川下流の竜山(たつやま)に産する石材で作られた例が多く、近畿地方中央部の大型古墳の埋葬施設に使用されているため、「王者の石棺」とされる。