【播磨国風土記】はりまのくにふどき

 奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

 
【鹿が壺】しかがつぼ

 地学上は甌穴(おうけつ、ポットホール)と呼ばれる。これは急傾斜の渓流の河床が岩盤であった場合、そのわずかな凹みにたまった礫(れき)や砂が、水流によって旋回することで岩盤をまるく浸食してできる。

 甌穴自体は珍しいものではないが、鹿が壺の場合のように、多数の甌穴が群集する例はまれである。これは、基盤の岩石(流紋岩質溶結凝灰岩)が比較的均質、緻密で、谷の傾斜と同一方向の流理面があることが、甌穴の形成に適していたためとされている。

 姫路市指定天然記念物。

 
【皆河の千年家】みなごのせんねんや

 姫路市安富町皆河に所在する。正式な名称は古井家住宅。1967年重要文化財指定。千年家の名称は、安志藩の丸山政煕(まるやままさひろ)による『播州皆河邨千年家之記』(1836)が初出。それによると、秀吉が姫路城築城の際に、この家が無災の千年家と聞き、この家の垂木の一部を築城の材に用いたという伝承が残っている。

 入母屋造り、草葺(ぶ)き屋根の家屋で、正面7間(13.9m)、側面4間(8.1m)の規模をもつ。現在の建物は、1970年の修理工事を経て、建築当初の状況に復元(一部推定復元)されている。

 建築上は、畳敷きを全く念頭に置かない間取り寸法であること、正面の間取りが1室、背面の間取りが2室の3室構造となっていること(あるいは正面背面ともに1室の可能性もあるという)、土間と部屋の構造が同じであり、大黒柱をもつような上部構造ではないこと、柱間の寸法が不ぞろいであることなどから、室町時代後期ごろの建築と推定されている。

 神戸市北区の箱木家住宅(箱木千年家)と並び、日本でわずか二棟残された最古の中世民家であり、民家建築の歴史を知る上で極めて重要な建築である。

 
【安志姫神社】あんじひめじんじゃ

 『播磨国風土記』に記された安師里(あなしのさと)の、里名の起源となった安師比売神(あなしひめのかみ)を祭る神社。安師比売は、本来は在地の巫女神であろうが、安師の名は、大和国の安師坐兵主神(あなしにいますひょうずのかみ)を勧請(かんじょう)したためとされている。

 安師坐兵主神は鉱業神であることから、安志姫神社を製鉄に関わる神社と考え、安師里が製鉄をおこなっていたという記述を目にすることがあるが、安富町一帯の地質からみて、安志里での鉄の産出は否定される。

 一方奈良時代には、宍粟郡の柏野里(かしわののさと、山崎町・千種町)、比地里(ひじのさと、山崎町)、安師里(あなしのさと、安富町)には山部が置かれていたことが明らかになっている。山部は朝廷に直属する山部連(やまべのむらじ)に統率された部民で、その名の通り山の産物を朝廷に納めることを務めとしていた。

 上記の里のうち、柏野里は風土記に「鉄を出す」と記されていることから、比地里、安師里などの山部も、その運搬などに関わった可能性は残されている。こうしたことから、本来は土地の巫女(みこ)神を祭っていた所へ、大和の鉱業神が勧請されて一体化した可能性が指摘されている。

 
【伊和大神】いわのおおかみ

 宍粟市一宮町の伊和神社の祭神。大己貴神(おおなむちのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)とも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)とも記されている。

 播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、渡来人(神)のアメノヒボコ(天日槍・天日矛とも書く)との土地争いが伝えられている。

 風土記には、宍粟郡から飾磨郡の伊和里(いわのさと)へ移り住んだ、伊和君(いわのきみ)という古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神と考えられている。

 なお、伊和神社の社叢(しゃそう)は、「兵庫の貴重な景観」Bランクに選定されている。

 
【塩野六角古墳】しおのろっかくこふん

 姫路市安富町塩野に所在する、古墳時代後期(終末期)の古墳。標高150~160mの東面する山腹に、単独で築造されている。1990~1991年におこなわれた発掘調査により、一辺の長さが3.8~4.4m、対辺長が6.8~7.3mの六角形を呈する古墳であることが明らかになった。前面の墳丘裾(ふんきゅうすそ)には列石がみられる。

 中心に、長さ4.4m、開口部幅1.1m、奥壁幅0.8m、高さ1.3mの横穴式石室が設けられている。石室内には礫(れき)を置いて棺台としているが、棺の跡などは見いだされていない。石室内からは、須恵器の長頸壺(ちょうけいつぼ)と坏(つき)が出土し、その形から7世紀中ごろのものとされている。被葬者は不明であるが、『播磨国風土記』に登場する山部氏をあてる説がある。

 六角形の古墳は、ほかに奈良県マルコ山古墳、岡山県奥池3号墳の2基が知られるのみである。