【仙人】せんにん

 中国の神仙思想や道教の理想とする人間像。人間界を離れて山の中に住み、不老不死の法を修め、神通力を得てさまざまな術を有する人。また仏教では、世俗を離れて山林に住み、神通力をもつ修行者のことを指す。仏を最高の仙人という意味で、「大仙」、「金仙」ということがある。

 
【法道仙人】ほうどうせんにん

 法華山一乗寺を開いたとされる、伝説上の仙人。他にも数多くの、近畿地方の山岳寺院を開いたとされる。法道仙人についての最も古い記録は、兵庫県加東市にある御嶽山清水寺に伝わる1181年のものである。

 伝説によれば、法道仙人は天竺(てんじく=インド)の霊鷲山(りょうじゅせん)に住む五百侍明仙の一人で、孝徳天皇のころ、紫雲に乗って日本に渡り、法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ)を開いたという。千手大悲銅像(千手観音)と仏舎利(ぶっしゃり)、宝鉢を持って常に法華経を誦し、また、その鉢を里へ飛ばしては供物を受けたので、空鉢仙人とも呼ばれたとされる。室町時代初期に著された『峰相記(みねあいき)』には、播磨において法道仙人が開いた寺として、20か寺があげられている。

 
【法華経】ほけきょう

 妙法蓮華経の略称。釈迦の耆闍崛山(ぎしゃくつせん)における8年間の説法を集めたものとされる。この経典の霊験功徳は、どのような障害も克服できると信じられている。日本では606年に聖徳太子が講経して以来重視され、諸国に法華滅罪の寺(国分尼寺)が建立された。天台宗、日蓮宗などが、この経典を根本として成立。

 
【法華山一乗寺】ほっけさんいちじょうじ

 兵庫県加西市にある天台宗の寺院。西国三十三箇所第26番、および播磨西国三十三箇所第33番札所である。山号は法華山、本尊は銅造聖観音立像。

 開基は法道仙人とされる。寺伝によれば法道仙人は、大化5(649)年に孝徳天皇に召されてその病気平癒を祈ったが、その霊験があったため、翌年天皇の勅願により堂宇が建立されたという。

 この説話が史実であるとは考えにくいが、本尊の銅造聖観音立像は白鳳期の作とされるため、寺の開基もこの時期だと言われている。北方2.5kmの笠松山山麓には、「古法華(ふるぼっけ)」の地名が残り、白鳳期の石仏も現存するため、一乗寺は本来この付近にあったと言われている。現在の位置に移った年代は、現存最古の建造物である三重塔(1171年建立)以前であろう。

 1523年には、兵火によって堂宇を焼失したが、1562年に赤松義祐により再興。さらに火災を受けるが、1628年に姫路城主本多忠政の援助で本堂などが復興した。

 国宝に指定されている三重塔は、この形式のものとしては日本国内屈指の古塔である。

 下記のような国宝、重要文化財のほか、県指定文化財多数。

<国宝>
三重塔・聖徳太子及天台高僧画像

<重要文化財>
金堂(本堂)・護法堂・弁天堂・阿弥陀如来五尊画像・五大力吼画像・聖観世音菩薩立像・ 木造法道仙人像・僧形座像・石造五輪塔

 
【古法華石仏】ふるぼっけせきぶつ

 加西市西長町古法華に所在する、白鳳期(7世紀後半)の石仏。浮彫如来像および両脇侍(わきじ)が、この地域に産する流紋岩質溶結凝灰岩に刻まれており、日本の石仏中、最も古いものの一つとされる。過去に火災に遭っており、一部が剥落している。

 縦102cm、横72cm、厚さ20cmの板石の表面に、高さ46cmの中尊と、蓮華座上に立つ脇侍を半肉彫りとし、中尊の上に天蓋、脇侍の上に三重の塔を刻んでいる。

 この三尊石仏上が、錣(しころ)葺きの屋根をかたどった石造の屋蓋に覆われていることから、これらは三尊石仏を奥壁とする石造厨子(ずし)として作られたと考えられており、その形式は法隆寺の玉虫厨子を想起させるという。1951年国指定重要文化財。

 
【孝徳天皇】こうとくてんのう

 第36代の天皇(596?~654)。在位は645~654年。大化の改新による蘇我氏本家滅亡をうけて即位した。皇太子は中大兄皇子で、実質的権力は中大兄皇子が握っていたとされる。難波長柄豊碕宮遷都などをおこなったが、中大兄皇子は天皇の意に反して、皇后や百官を率いて大和飛鳥へ戻り、取り残されたまま難波宮で病死した。 

 
【峰相記】みねあいき

 1348年ごろに著された中世前期の播磨地方の地誌。著者は不明である。播磨国峯相山鶏足寺(ぶしょうざんけいそくじ)に参詣した僧侶と、そこに住む老僧の問答形式で著されている。日本の仏教の教義にはじまり、播磨の霊場の縁起、各地の世情や地誌などが記されている。安倍晴明(あべのせいめい)と芦屋道満(あしやどうまん)の逸話、福泊築港、悪党蜂起の記述など、鎌倉時代末の播磨地域を知る上で重要な記録となっている。最古の写本は、太子町斑鳩寺(はんきゅうじ)に伝わる1511年の年記をもつもの。

 
【石棺】せっかん

 埋葬する遺体を納めるために作られた、石製の棺。石を組み合わせて作る場合と、一個の石をくりぬいて作る場合がある。日本での最古の例は縄文時代後期にさかのぼる。

 古墳時代には、古墳に埋葬するためのさまざまな形式の石棺が製作された。その主要なものには、割竹形石棺、舟形石棺(ともに古墳時代前期)、長持形石棺(中期)、家形石棺(後期)がある。

 
【生石神社・石の宝殿】おうしこじんじゃ(「おおしこ」とも表記することがある)・いしのほうでん

 『生石神社略記』によれば、崇神天皇(すじんてんのう)の代に創建したとされ、背後の宝殿山山腹にある石の宝殿を神体として祭る。

 石の宝殿については、オオナムチの神とスクナヒコナの神が、出雲からこの地に来た際に、国土を鎮めるため、夜の間に石の宮殿を造営しようとしたが、阿賀の神の反乱を受けて造営が間に合わなかったという伝承(『生石神社略記』)、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ=物部守屋)が造ったという『播磨国風土記』の伝承などがある。古墳時代終末期の石棺や横口式石槨(せきかく)などとの関係を指摘する説、石棺の未製品とする説、火葬骨の骨蔵器外容器とする説、供養堂とする説などがあるが、製作年代については、7世紀代と考える人が多いようである。

 
【黒井城】くろいじょう

 丹波市春日町と市島町の境にある、猪ノ口山(365m)山頂にある城。足利尊氏の北条攻めに加わった赤松貞範が、その功績によって春日町周辺を領有して築城した。

 西曲輪(くるわ)、本丸、二の丸、三の丸、東曲輪が並ぶ連郭式の山城で、東西170m、南北40mを測る。周囲9kmにわたる山地には、出城や館なども残る。

 赤松氏の後、赤井氏、荻野氏が領有した。天文23(1554)年に城主となった荻野直正(悪右衛門)は、勇将とうたわれ、丹後、但馬へも勢力を伸ばしたが、明智光秀に攻められ、4年間にわたる戦いの後に落城した。その後、光秀の城代として斉藤利三が入った際、この地で生まれた娘が、後に徳川家光の乳母となった春日の局(かすがのつぼね)である。1989年、国指定史跡。

 
【明智光秀】あけちみつひで

 戦国時代末~安土桃山時代の武将(1528?~1582)。美濃国守護の土岐氏(ときし)の一族とされるが、詳細は不明。織田信長に仕え、足利義昭の将軍擁立に関与した。信長の上洛後は、京都の公家・寺社などとの交渉役として活躍し、1571年には近江坂本城主となった。1575年から、信長による中国攻略にともなって丹波へ侵攻してこれを攻略。丹波一国の支配を認められた。1582年、京都の本願寺で信長を殺害したが、その11日後には羽柴秀吉と京都の山崎で戦って敗れ、敗走中に山城国小栗栖(おぐるす)で農民に殺害された。

 
【イチョウ】いちょう

 銀杏、公孫樹とも表記する。学名はGinkgo biloba。

 裸子植物イチョウ科に属するイチョウ類の中で、唯一の現存している種である。近縁の化石種は古生代から知られており、中生代のジュラ紀には世界的に分布していたが、現生のイチョウを除き、他の種はすべて絶滅した。広葉樹のように思われがちだが、針葉樹の仲間である。雌雄異株であるため、実は雌木にのみなる。

 イチョウの語源は、葉がカモの足に似ることから、中国語で鴨をさす「ヤーチャウ」がなまったとされる。

 実は銀杏(ぎんなん)と呼ばれ食用となるが、皮膚に触れるとかぶれなどを引き起こすことがある。また、食用とする種子の中には、神経伝達物質の生合成を阻害する成分が含まれ、けいれんなどを引き起こす恐れがあり、特に子供の場合には要注意とされる。大人の場合、1日あたりの摂食の目安は4粒程度とされるが、その一方で咳を鎮める効果があり、薬草として用いられることもある。

 現在日本で見られるイチョウは、中国で生き残ったものが持ち込まれたもので、その時期は平安時代後期~鎌倉時代とされている。ヨーロッパには17世紀に持ち込まれ、現在では世界各地で栽培されている。 

 イチョウは大木となるが、大木では枝から垂れ下がった円錐形の突起を生じる場合があり、乳イチョウなどと呼ばれる。「乳が出るようになる」といった伝説も、こうしたところから生まれたのだろう。