【和泉式部】いずみしきぶ

 平安時代中期の女性歌人。生没年不詳だが、974年あるいは976年生という説がある。父は越前守大江雅致、母は越中守平保衡の娘。和泉式部の名は、最初の夫である和泉守橘道貞の任国と、父の官名に由来する。

 道貞との間には、娘小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれたが、やがて夫婦の間は破綻して別離。その後は為尊親王(ためたかしんのう)、敦道親王(あつみちしんのう)などとの恋の遍歴があったが、いずれも死別に終わっている。敦道親王との恋愛を物語風につづった『和泉式部日記』は有名であるが、式部本人の著述ではないとの説もある。

 後には、藤原道長の娘で一条天皇の中宮であった彰子に仕えているが、この時、彰子の傍には、紫式部、赤染衛門などの歴史に残る人材がいた。

 さらに藤原保昌と再婚し、保昌が丹後守に任ぜられると、共に丹後へ下ったとされる。和泉式部が50歳のころ、娘、小式部内侍が亡くなって、式部は悲しみに暮れた。保昌は1036年に亡くなったことがわかっているが、和泉式部晩年の消息はまったくわからない。

 現在、残っている歌は1500首を超え、『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集には276首もの歌が採録されている。特に恋歌や挽歌などの叙情的な和歌に、天分を発揮した。

 
【和泉式部伝説】いずみしきぶでんせつ

 和泉式部の伝説は、東北から九州までの広い範囲に、数多く残っている。それは式部自身の恋多き生涯から多くの伝説が生まれ、それが中世、遊行の女性たちによって各地で語られたためであろう。またこうした女性遊行者が、「和泉式部」を名乗って、式部の伝説や古跡を残したという考えもある。

 柳田国男は、式部伝説がこのように多いのは「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。

 このことはまた、世阿弥の作と伝えられている謡曲『誓願寺』で、和泉式部が「歌舞の菩薩(ぼさつ)」として描かれ、後に芸能の世界の人々に和泉式部信仰が生まれたことと無縁ではないだろう。式部の墓所のひとつは、誓願寺に近い、京都市の新京極通りにある。

 
【小式部内侍】こしきぶのないし

 平安時代中期の女性歌人(999?~1025?)。父は橘道貞、母は和泉式部。一条天皇の中宮であった藤原彰子に仕えたが、若くして病没。小倉百人一首の「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」の歌は有名。

 当時、小式部内侍の歌は母の和泉式部が代作しているといううわさがあり、中納言藤原定頼が、歌合わせで歌を詠むことになった小式部に対して、「丹後国のお母さん(和泉式部は当時、夫の任国である丹後に下っていた)の所に、代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などと質問をしたのに対して、その場でこの歌を詠んだという。 

 その主旨は「大江山を越えて生野(丹後の地名)へと向かう道のりは遠いので、母のいる天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」という意味である。この当意即妙の歌は、小式部の名を大いにあげたとされる。

 
【和泉式部供養塔】いずみしきぶくようとう

 加古川市野口町坂元所在。古くから和泉式部の墓として祭られている。旧山陽道沿いに立つ石製宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、室町時代初期の製作と考えられている。高さ255㎝。兵庫県指定文化財。

 
【山陽道】さんようどう

 奈良時代に政府によって整備された、平城京から大宰府に至る道。古代では最大規模の街道で、幅6~9mの道路が直線的に設けられていた。平安京に遷都後は、起点が平安京となる。外国の使節が通行することが予想されたため、同様に整備された七街道の中で、唯一の大路に格付けされて最重要視された。途中には56駅が設けられていた。

 江戸時代には、古代山陽道を踏襲して西国街道が整備され、現在の国道2号線も一部で重複しながら、これに沿って設けられている。

 
【長幡寺(長坂寺)・遍照寺】ちょうはんじ・へんしょうじ

 伝承にある長幡寺は聖徳太子の創建で、二十八院をもつ大寺院とされ、現在明石市魚住町にある遍照寺は、その塔頭のひとつと伝えられる。長幡寺の正確な位置と規模は不明であるが、魚住町の長坂寺遺跡からは、奈良時代の瓦などが多数出土していることから、長幡寺にあたるとする説がある。長坂寺遺跡は古代山陽道に面しており、仮称邑美(おうみ)駅家もこの付近にあったと推定されている。

 
【和泉式部歌塚】いずみしきぶうたづか

 書写山円教寺奥の院の、開山堂北側にある石製宝篋印塔(ほうきょういんとう)。和泉式部らが中宮彰子の供をして円教寺を訪れた際、性空上人は一旦これを拒絶したが、式部が詠んだ歌に感心して一行を迎え入れたという伝説にちなむものという。