【菅原道真】すがわらのみちざね

 平安時代前期の公卿(くぎょう)、学者(845~903)。菅公(かんこう)と称された。幼少より詩歌に才能を発揮し、33歳で文章博士(もんじょうはかせ、律令政府の官僚養成機関であった大学寮に置かれた教授職)に任じられた。宇多、醍醐両天皇の信任が厚く、当時の「家の格」を越えて昇進し、従二位右大臣にまで任ぜられた。しかし、道真への権力集中を恐れた藤原氏や、中・下級貴族の反発も強くなり、左大臣藤原時平が「斉世親王を立てて皇位を奪おうとしている」と天皇に讒言(ざんげん)したことで、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、同地で没した。

 
【大宰府】だざいふ

 中世以降太宰府とも表記するが、歴史用語としては「大」の字を用いる。

 7世紀後半に、九州の筑前国(ちくぜんのくに)に設置された地方行政機関。外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、種子島の行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

 
【右大臣】うだいじん

 律令政府における最高機関であった太政官の職のひとつ。太政大臣、左大臣に次ぐ地位である(ただし太政大臣は常に置かれるものではなかったため、実質的には第二位の職)。 左大臣を補佐する。菅原道真は899~901年に右大臣をつとめた。

 
【大物】だいもつ

   大物浦は古くからの物流の結節点で、海の輸送と川・陸の輸送との変換点であった。海上を運ばれた物資はここで川船に積み替えられて都へ運ばれ、また西国を目指す人々にとっては海の玄関口でもあった。謡曲『舟弁慶』ゆかりの地としても知られている。『平家物語』にも記述がみられ、源頼朝に疑われ都落ちを決意した義経が、西国を目指して船出したのが大物浦であるという。大物浦にある大物主神社(おおものぬしじんじゃ)には、義経主従が一時身を潜めたという言い伝えが残り、境内には「義経・弁慶隠れ家跡」の碑がある。海上交通の要衝として栄えた大物の地にあるこの神社に、自分たちの航海の安全を祈願したのであろうか。大物浦を出発した義経たちは、祈りもむなしく大風に吹き戻されやがて吉野の地に落ちていく。

   今は埋め立てられ、海岸線は当時と比べると、はるか沖合いにある。埋め立てられた場所には、細長く伸びる公園があり、かつての大物浦の姿をしのぶことができる。

 
【天神】てんじん

 天神は、本来「天の神」を指し、雷や雨の神として信仰されていた。しかし菅原道真が大宰府で没した後、京都では落雷の災害が頻発し、また醍醐天皇の皇子が次々と亡くなったため、これを道真のたたりと考えた朝廷は、京、大宰府に天満宮を置いて怨霊(おんりょう)を鎮めようとした。これ以降、道真を天神とする信仰が広がり、道真が優れた学者であったことから、学問の神としても信仰されるようになった。

 
【絵馬】えま

 寺社に祈願するとき、および願いがかなってその謝礼をするときに奉納する、絵が描かれた木の板。奈良時代には生きた馬(神馬、しんめ)を奉納していたが、馬を奉納できない者は次第に木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、平安時代から板に描いた馬の絵で代用されるようになった。

 
【駅家】うまや(単に駅:えき と記すこともある)

 律令期に、街道に置かれた駅伝制の施設。30里(約16km)ごとに設けられ、駅長、駅子(えきし)を配置した。厩舎(きゅうしゃ)、宿舎、厨家(くりや、炊事施設)などが設けられて、役人の職務のための旅行などの際、馬を乗り継ぎ、食料などを補給した。街道の格付けによって、準備される馬の数が異なり、山陽道の駅家では20頭を常備することとされていた。

 律令政府の変質に伴って平安時代中ごろからは衰退し、しだいに私人経営の宿がこれに替わるようになった。

 
【太政官】だいじょうかん

 律令政府における行政の最高機関。八省を統括して政務全般をつかさどった。太政大臣、左大臣、右大臣、大納言で構成される公卿官(くぎょうかん)による審議を、少納言局、左右の弁官局が事務処理して、八省が実務をおこなうという体制がとられていた。

 
【山陽道】さんようどう

   奈良時代に政府によって整備された、平城京から大宰府に至る道。古代では最大規模の街道で、幅6~9mの道路が直線的に設けられていた。平安京に遷都後は、起点が平安京となる。外国の使節が通行することが予想されたため、同様に整備された七街道の中で、唯一の大路に格付けされて最重要視された。途中には56駅が設けられていた。

 江戸時代には、古代山陽道を踏襲して西国街道が整備され、現在の国道2号線も一部で重複しながら、これに沿って設けられている。