【ギフチョウ】ぎふちょう

アゲハチョウ科に属するチョウ。年に一度、4月に現れ、その美しさから「春の女神」と称えられる。播磨地域では、幼虫はミヤコアオイ・ヒメカンアオイなどを食べて育つ。食草の関係から、播磨地域では、里山の雑木林が主な生息地となっていたが、開発による生息地の破壊と、雑木林の放置による荒廃で減少しつつある。環境省絶滅危惧種II類、兵庫県レッドデータブックBランク。

 
【志染の石室】しじみのせきしつ

 志染の窟屋(しじみのいわや)ともいうことがある。

 三木市志染に所在する、自然の岩盤が浸食されてできた岩陰。『播磨国風土記』などでは、父市辺押盤皇子(いちべのおしはおうじ)を大泊瀬皇子(雄略天皇)に殺され、都を逃げのびた億計(をけ)、弘計(おけ)の二皇子が隠れ住んだ場所と伝えている。のちに弟の弘計が23代顕宗天皇、兄の億計が24代仁賢天皇となった。

 現在、窟屋内にはわき水がたまっているが、ここに淡水性藻類の光り藻が発生することがあり、その際には水が金色に輝くことから、「窟屋の金水」と呼ばれている。

 
【顕宗天皇】けんぞうてんのう

 第23代の天皇。『日本書紀』によれば、在位は485~487年。名は弘計(おけ)。父の市辺押磐皇子(いちべのおしはおうじ)が、雄略天皇に殺されたために、兄の億計(をけ)とともに播磨に逃れ、雄略天皇の死後に名乗り出て即位したという。

 
【仁賢天皇】にんけんてんのう

 第24代の天皇。『日本書紀』によれば、在位は488~498年。名は億計(をけ)。父の市辺押磐皇子(いちべのおしはおうじ)皇子が、雄略天皇に殺されたために、弟の弘計(おけ)とともに播磨に逃れ、雄略天皇の死後に名乗り出て弟に次いで即位したという。

 
【光り藻】ひかりも

 淡水産の微細藻類で、不等毛植物門、黄金色藻綱に属する。水面に浮かんだ部分が光を反射して黄金色に輝く。生活史の1段階で、水をはじく性質をもつ脚をのばすため、この時期に体が水面に浮かぶ。国内で初めて発見された千葉県竹岡では、国の天然記念物に指定されている。

 
【伽耶院】がやいん

 三木市志染に所在する天台系寺院。元は修験宗(しゅげんしゅう)に属する。山号は大谷山。縁起によれば、大化元(645)年に、法道仙人が山中の清水から毘沙門天の像を得て、孝徳天皇の勅により伽藍(がらん)を造営したのが始まりとされるが、正確な創建時期は明らかではない。歴代天皇の勅願所として保護された。

 中世には、熊野詣でと修験道の隆盛を受けて栄え、全盛時には七堂伽藍130坊を有する大寺院となった。天正8(1580)年、羽柴秀吉による三木城攻めの際に兵火を受けて全山が焼失したが、その後、諸国大名の寄進などにより再建された。

 本堂は、慶長15(1610)年再建という伝もあるが、解体修理時の所見などから正保3(1646)年ごろの再建とされている。堂内に、本尊の毘沙門天立像を安置する。また多宝塔は正保5(1648)年に再建されたもので、ともに重要文化財に指定されている。

 このほか、鎮寺社として建てられた三坂明神社も、重要文化財に指定されている。

 本尊は木造毘沙門天立像。正確な年代は不明であるが、像の様式から平安時代後期~末の作と考えられている。

 
【三木城】みきじょう

 三木市上の丸町に所在する、室町時代~江戸時代初期の平山城跡。

 中世の東播磨を支配した別所氏が、守護の赤松氏からこの地を与えられて築城した。戦国期には浦上氏、尼子氏、三好氏などの攻撃を受け、落城と回復を経験した。その後別所氏は勢力を拡大して自立していったが、毛利氏と結んで織田信長に背いたため、天正6(1578)年から2年に渡って織田方の羽柴秀吉による攻撃を受け、天正8(1580)年に落城。

 秀吉との戦いは「三木合戦」と呼ばれ、別所長治との間で激しい攻防戦があったが、特に補給路を断つ兵糧攻めは、俗に「三木の干殺し」と言われるほど悲惨なものだったという。この結果、長治は城兵の命と引き替えに切腹し、別所氏は滅びた。

 本来の城郭は現在の三木市街地部分も含むものであったが、本丸周辺だけが上の丸公園として残っており、別所長治の辞世「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」の歌碑が建てられている。

 
【根日女】ねひめ

 根日女命(ねひめのみこと)ともいう。『播磨国風土記』などによれば、根日女は国造許麻(くにのみやつこ こま)の娘で、億計皇子(をけおうじ)、弘計皇子(おけおうじ)の二人から求婚され、承諾したものの、皇子たちが譲り合って結局めとらなかったため、やがて年老いて死んだ。それを哀れんだ皇子たちは、山部小楯(やまべのおだて)を遣わして墓を造り、玉で墓を飾ったのでその墓を玉丘と呼び、墓がある場所を玉野と呼ぶようになったと伝えている。現在加西市にある玉丘古墳が、この玉丘の墓にあたるものとされている。

 根日女が実在の人物か否かを判断する資料はないが、根日女の父が国造許麻と記されることから、大和政権と播磨の豪族の関係を象徴的に示す伝説の一つとも考えられている。

 
【石棺仏】せっかんぶつ

 石棺の部材を利用して作られた石仏。石棺の蓋(ふた)のような板状の石材をそのまま利用して、浮き彫りで石仏をあらわしたものが多い。加古川市、高砂市、小野市、加西市など、加古川流域西部に多く分布する。13~16世紀に製作されたものが多いと考えられている。

 
【播磨国風土記】はりまのくにふどき

 奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

 
【長持形石棺・家形石棺】ながもちがたせっかん・いえがたせっかん

   長持形石棺は、古墳時代中期に盛行した石棺。底石の上に側石と小口石をはめ込み、かまぼこ形の蓋(ふた)をのせる。蓋石の各辺や側石の両端に1~2個の突起(縄かけ突起)を作り出す。加古川下流の竜山(たつやま)に産する石材で作られた例が多く、近畿地方中央部の大型古墳の埋葬施設に使用されているため、「王者の石棺」とされる。

   家形石棺は古墳時代中期に始まり、後期に普及する石棺の一種。蓋の頂上部が平坦で、そこから側面に向かって屋根状の広い斜面となる。棺身とあわせて家の形を連想させることから命名された。蓋の長辺に2個、短辺に1個の突起(縄かけ突起)を持つものが典型的である。棺身には、くり抜き式と組み合わせ式とが見られる。

   播磨地域で見られる長持形石棺・家形石棺は、いずれも竜山石(あるいは類同の高室・長などの石材)を用いたものである。

 
【玉丘古墳】たまおかこふん

 加西市玉丘町に所在する、古墳時代中期の前方後円墳。古墳時代中~後期の、38基以上の古墳からなる玉丘古墳群の中核的古墳で、全長107mをはかり、周囲に馬蹄形の濠(ほり)を巡らせている。

 埋葬施設は古くに破壊されているが、後円部に長持形石棺の破片が散乱していることから、石室などを設けない石棺直葬と考えられる。刀剣、玉類などの出土が伝えられるが、今は所在不明である。周濠(しゅうごう)からは円筒埴輪のほかに、家形、鳥形、壺形(つぼがた)などの形象埴輪が出土している。

 加古川中流域最大の古墳で、畿内政権と密接な関係をもつ王墓と考えられる。

 
【埴輪】はにわ

 古墳に立て並べた、日本固有の焼物。岩手県から鹿児島県にかけて分布する。古語で土あるいは粘土を意味する「ハニ」に通ずる。筒状の円筒埴輪と、人をはじめさまざまな器物や動物をかたどった形象埴輪とがある。

 起源は円筒埴輪の方が古く、弥生時代末に埋葬儀礼に用いられていた器台と壺(つぼ)が祖形である。形象埴輪は古墳時代前期後半頃から登場することから、野見宿禰を埴輪の始祖とする『日本書紀』の伝承は事実と相違する。