みなさん、はじめまして。ひょうご歴史研究室歴史研究推進員の大村拓生です。

私が着任したのは、研究室が発足した翌年度にあたる平成28年4月になります。初年度から客員研究員として活動には参加していましたが、28年度は赤松氏と山城研究班を重点的に取り組むということで、週二日勤務でしてそれにあたることになったのです。研究班では、28年度から「三ヶ年を目処にして、上郡町が実施する『赤松館』埋文調査と連携しつつ、それと並行して千種川流域を中心とする基本的な文献資料のデータ収集・整理にあたり、その調査・分析をすすめる」という方針を立て、共同研究を進めてきました。その中での私の役割は、文献資料の収集と分析です。ここではその成果について順番に紹介していきたいと思います。

『ひょうご歴史研究室紀要』第2号(2017年3月刊)に掲載されたのが「揖保川流域の禅院と石見守護代所」です。ここでは以前に私が関わっていた『播磨新宮町史史料編Ⅰ』で紹介した建仁寺両足院蔵「本邦禅林宗派」に掲載されている播磨の禅宗寺院9ヶ所について、現地調査も踏まえた位置の比定を行い、文献からその動向について検討しました。またそのうちの二つの寺院の立地場所で、15世紀前半には下野入道を名乗る守護代も一時拠点としていた石見について、従来いわれているたつの市御津町岩見ではなく、太子町岩見構とその周辺であることを指摘したものです。

室町期に武家によって保護された寺院は、その後は衰退してしまい現地でそのまま存続することはできませんでした。また嘉吉の乱で衰退した赤松氏の復活に重要な役割を果たしたのが、赤松下野守政秀でその来歴を明らかにすることは赤松氏研究にとって大きな課題です。そうした研究のためには、現地を訪ねその痕跡を探り、文献史料と照らし合わせて、実像を明らかにしていく作業が不可欠でした。何度かの予備調査を行った上で、2016年12月7日は出張として禅院跡と守護代所を探して、一日中歩き回りいくつかの手がかりを得ることができました。その意味で歴史研究室があったからこそなしえた論考といえるでしょう。

岩見構土塁状の高まり
集められた中世を含む石造物

また第2号には大手前大学総合文化学部長の小林基伸さんと連名で「『赤松家播備作城記』 -解説と翻刻-」も掲載されています。小林さんは長年播磨の中世史研究に携わってこられ、昨年度まで赤松氏と山城研究班のリーダーを務めてこられました。「赤松家播備作城記」は、江戸時代になってから成立したものですが、赤松氏が室町期に守護を務めていた播磨・備前・美作の城について城主と来歴を記したものです(備前については失われてしまっています)。しかし原本に忠実な翻刻がなく、小林さんの所属する大手前大学史学研究所と研究室の連携事業として実現したものです。こうした良質な史料提供も研究室の重要な役割の一つと考えています。