姫路は律令体制下での播磨国府が置かれた所であり、古くから一国の中心地としての諸条件を備えていた。播磨地方の戦国時代が終焉をむかえる天正8年(1580)には、羽柴秀吉が黒田孝高(如水)の勧めに応じて姫路を居城に定め、以後の発展が約束される。そして、関ケ原の戦い後、池田氏と本多氏により連立式天守をはじめとする姫路城の整備が進められ、ほぼ今日見ることのできる雄姿に完成したのである。この絵図は、第2次本多氏時代の姫路城と城下の様子を描いたもので、普請方小役人村井八右衛門の「御城内外惣家中侍之家名惣町中共之絵図」を借写した旨の端書が見られる。この時の姫路城主は本多忠国であり、元禄10年に事業が本格化する、国絵図改訂に伴う作業に関連した城下絵図の借写であった可能性が考えられる。
資料解説
姫路は律令体制下での播磨国府が置かれた所であり、古くから一国の中心地としての諸条件を備えていた。播磨地方の戦国時代が終焉をむかえる天正8年(1580)には、羽柴秀吉が黒田孝高(如水)の勧めに応じて姫路を居城に定め、以後の発展が約束される。そして、関ケ原の戦い後、池田氏と本多氏により連立式天守をはじめとする姫路城の整備が進められ、ほぼ今日見ることのできる雄姿に完成したのである。この絵図は、第2次本多氏時代の姫路城と城下の様子を描いたもので、普請方小役人村井八右衛門の「御城内外惣家中侍之家名惣町中共之絵図」を借写した旨の端書が見られる。この時の姫路城主は本多忠国であり、元禄10年に事業が本格化する、国絵図改訂に伴う作業に関連した城下絵図の借写であった可能性が考えられる。